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2020年6月30日 (火)

電気グルーヴ「自粛」の1件から社会を考察

今回は最近読んだ音楽関連の書籍の感想です。

昨年、音楽業界のみならず芸能界全体に大きな衝撃を与えたピエール瀧の覚せい剤所持逮捕のニュース。その中で音楽ファンにとって大きなショックだったのが彼が所属していた電気グルーヴのCD・配信がすべて停止になった出来事でした。特にサブスクリプションの音源も一切停止されたことによって、それまで普通に聴いていた電気グルーヴの曲が突然聴けなくなってしまった出来事は、サブスクリプションのリスクがあらためて顕在化した瞬間でした。

そして、そんな電気グルーヴ関連の音源の発売停止に関して反発の声が大きく上がったのも印象的な出来事でした。そんな中で、作品の販売・配信停止の撤回を求める署名活動も行われ、こちらもニュースとして取り上げられました。今回紹介する1冊「音楽が聴けなくなる日」は、電気グルーヴ音源の発売中止がなぜ行われたのか、その理由と問題点について考察したもの。その署名活動の発起人のひとりが社会学者の永田夏来と音楽研究家のかがりはるきが中心となり、さらに社会学者の宮台真司を含め3名が、それぞれの立場からその理由について考察しています。

具体的には永田夏来が社会学の観点から、かがりはるきは過去の犯罪事件より、CDの販売停止、自粛が行われた歴史を調べた上で、自粛をよぎなくされたミュージシャンと逆にレコード会社側の関係者のインタビューを実施。さらに宮台真司は哲学的な観点を含めて、さらにはあいちトリエンナーレの「表現の不自由展」で起こった騒動との共通点を探ることにより、より深い考察を試みています。

さて、永田夏来と宮台真司はそれぞれの立場からこのような販売停止、自粛が起こる理由について考察しているのですが、その結論は率直に言って両者、似たような結論に達しています。宮台真司の言説を借りれば、「90年代半ば以降のグローバル化と過剰流動性を背景に共同身体性と共通感覚が消え、徹底的なゾーニングが図られ」た結果、「多視座化の可能性が阻まれ、社会の劣化が加速」し、宮台真司が「クソ」と表現する社会の外を消去する社会が出来上がり、そのような社会故に、「法」を無意味に信奉し、社会からはずれた「犯罪者」を過剰にバッシングするような社会になっている・・・そう語っています。

簡単に言うと、グローバル化などを背景として、物事が異常なまでに変化して続けている現在において、人と人とのつながりが非常に希薄となり、その結果として、法律に従うことを異常に重要視したり、そこからはずれたような人を異常にバッシングしたりする社会が出来てきた、といった感じでしょうか。第1章では永田夏来がおなじく署名運動に関するエピソードを語ると同時に、このような現象が生じる理由について考察していますが、同じく、現代社会が流動的であるからこそ、前例主義に陥っている点を指摘。同じくその結果として「全人格的な人間関係」から「状況的な人間関係」に変化しており、人と人とのむすびつきが希薄になってことを取り上げています。

これらの指摘については非常に納得感がある一方、正直言えばある程度は理解していた点であり、全く気が付かなかった視点からの指摘、というような驚きはあまりありません。ただ、宮台真司の考察では、なぜ芸術と芸術を作り出す主体は分離しうるか、なぜ道徳的観点から芸術を糾弾するのは問題なのか、詳しく考察しており、読んでいて非常に考えさせられる点が数多くありました。また、最後には「クソ」な社会の中で「法の奴隷化」しないためには、まず好きなことを好きとはっきり言おう、という具体的かつ簡単な解決法も示されており、最後まで興味深く読むことが出来ました。

一方、若干、最後の部分に納得感がなかったのが永田夏来の考察。状況的な人間関係で人と人のむすびつきが希薄になっている点を問題点としてあげながら、最後の家族論ではいまような結婚観を否定し、「状況ごとに最適なパートナーを選んだっていい」とむしろ人間関係の希薄性を肯定しているように感じます。彼女の家族論の賛否とは別として、この考察の流れとして、この家族論の結論は、むしろそれまで否定していたことを一気に覆すような流れの悪さを感じてしまい、疑問を抱いてしまいました。彼女の考察の中で、石野卓球がTwitterでピエール瀧を前提としたつぶやいた「キミたちのほとんどは友達がいないから分からないと思うけど、友達って大事だぜ。あと「知り合い」と「友達」は違うよ」というツイートを取り上げ、この本当の友達こそが流動的な社会を生き抜く秘訣と語っているのですが、彼女が最後に絶賛している状況ごとの最適なパートナーというのは、石野卓球が取り上げた友達とは全く逆の存在のように感じます。

さて、そんな社会学的な考察で考えさせる中、個人的に一番興味深かったのが第2章のかがりはるきによる「自粛」の歴史と関係者の証言。特に事務所、ミュージシャン、レコード会社関係者のそれぞれの証言は興味深く感じました。特にレコード会社の元幹部である代沢五郎の証言はレコード会社側の人間の本音が赤裸々に語られています。正直、かなりレコード会社寄りの意見であり、音楽ファンとしてはイライラさせられる部分もあるのですが、そんな点を含めて興味深い発言が多く、特に「(CDの回収などで)短期的にはそう(誰も得しない)ように見えるが、中長期的には(コンプライアンスな観点から)そっちの方が儲かるからやってんだよ!」という発言は、レコード会社関係者の本音中の本音じゃないでしょうか。実際、結局のところ社会の劣化やら流動化社会やら前例主義やら関係なく、儲かるか儲からないか、ビジネスである以上それに尽きる・・・それがCDの回収、自粛の大きな要因のように感じます。

今回の考察で若干物足りなさを感じたのは、このビジネス的な視点からの考察があまりなかった点。個人的にはここ最近、ミュージシャンが犯罪を起こした場合のCDの回収や自粛が広まっている背景としては、音楽業界が巨大産業化した結果、いままでいかがわしさも許容してきたレコード会社や事務所が「立派な会社」となってしまい、いかがさしさを許容できなくなり、さらには昨今のコンプライアンスへの異常なまでの重視が重なった結果、CDの回収や自粛が今まで以上に広がってしまった、という点があると思います。ただ、こういったビジネス的な背景からの考察が出来る人をひとり、加えてもよかったように感じました。

ただ、ここ最近、この流れが徐々に変わってきているように感じます。電気グルーヴの一件でもむしろ自粛反対派の声が目立ったように感じますし、そんな中で、先日、覚せい剤で2度目の逮捕となってしまった槇原敬之の一件では、現時点において(新譜のリリース中止はあったものの)CDの販売停止、回収や配信・ストリーミングの停止が一切ありません。それにも関わらず、この一件でレコード会社側を責める意見がほとんどなかった点や売上へのネガティブな影響がほとんどなかった点から、今度、レコード会社側の対応も変わっていくのではないでしょうか。

さらには先日、ついに電気グルーヴのCD販売、配信が再開され、これがニュースとなりました。正直、ピエール瀧の刑罰が確定したタイミングでも執行猶予が終了したタイミングでもなく、今回の再開時期に全くの合理性がありません。CD販売、配信がこのようなおかしなタイミングで再開されることがニュースにより知れ渡ることにより、この「自粛」の無意味さが、より知れ渡る結果になったようにも思います。

社会学、哲学的な観点からの考察は難しい部分もあり、単純な「音楽関連の書籍」とは異なる1冊であるため、気軽に「自粛」の経緯、歴史を知りたい人にはちょっと難しい1冊になっているかもしれません。ただ、様々な点で考えさせられながら読む本でもあり、とても興味深い考察も多くみられました。今回の電気グルーヴの1件で疑問に感じた方にはお勧めしたい1冊。今後、このような社会が少しでも変わって行けばよいのですが。

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